すぐ近くにありながら、行ったことが無い所というものが意外と多くありませんかね~
桑名にございます「六華園」という国の重要文化財にも指定されている所でございますが、先日のテレビの刑事ドラマの舞台にもなっておりまして、我が家の奥さんと二人で、昨日ブラブラと行って参りました。
この、六華園とは、桑名の実業家であります、諸戸清六さんという実業家の邸宅でありまして、洋館が大正2年に竣工したものであります。有名な、鹿鳴館を設計された方が手掛けた作品であると言われております。
桑名市の揖斐川沿いの住宅地の中にありまして、敷地に入りますと、静かなたたずまいなのであります。中心的な存在なのが、この洋館でありまして、シンプルなデザインの建物なのですが、日本庭園と実にマッチしてございます。
隣接した、和館の広大な建物と、中庭を眺めることが出来る離れなども、良いものがありましたなぁ~ 離れの和室に座りまして、中庭を眺めておりましたら、思わずゴロリと横になりまして、気持ちの良いものがございました。
正面から見ました洋館であります。

日本庭園をぐるりと散歩しておりまして、反対側から眺めた屋敷群でございます。いい雰囲気でございました。

帰りの途中で見つけました、小さなお店でありましたが、なかなか美味しい洋食屋さんであります。穴場的なお店ですなぁ~ (^。^)y-.。o○

桑名にございます「六華園」という国の重要文化財にも指定されている所でございますが、先日のテレビの刑事ドラマの舞台にもなっておりまして、我が家の奥さんと二人で、昨日ブラブラと行って参りました。
この、六華園とは、桑名の実業家であります、諸戸清六さんという実業家の邸宅でありまして、洋館が大正2年に竣工したものであります。有名な、鹿鳴館を設計された方が手掛けた作品であると言われております。
桑名市の揖斐川沿いの住宅地の中にありまして、敷地に入りますと、静かなたたずまいなのであります。中心的な存在なのが、この洋館でありまして、シンプルなデザインの建物なのですが、日本庭園と実にマッチしてございます。
隣接した、和館の広大な建物と、中庭を眺めることが出来る離れなども、良いものがありましたなぁ~ 離れの和室に座りまして、中庭を眺めておりましたら、思わずゴロリと横になりまして、気持ちの良いものがございました。
正面から見ました洋館であります。

日本庭園をぐるりと散歩しておりまして、反対側から眺めた屋敷群でございます。いい雰囲気でございました。

帰りの途中で見つけました、小さなお店でありましたが、なかなか美味しい洋食屋さんであります。穴場的なお店ですなぁ~ (^。^)y-.。o○

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by sinsama2
| 2011-09-24 17:45
| 歴史探訪
徳川家康さんは、関ヶ原の戦いの際に暗殺されていた。。。。
という設定での小説、「影武者徳川家康」をここのところずぅ~っと読んでおりまして。
ずいぶんとはまっております。
関ヶ原の戦いは、その後の影武者であります人物により戦いが進められ、家康の天下となるわけなのでありますが、戦後に、本多忠勝、本多正信、榊原康正、井伊直正の重臣+息子の徳川秀忠のみがこの事実を知ることになるのでありますが、ここで家康死すとなりますとまだまだ大名たちを秀忠では押さえることすらできないため、影武者がこのまま家康役を続けることになるのであります。
親孝行の仮面ほかぶった秀忠との暗闘やら、側室達を味方につけてしまう影武者の人間味。実に面白いものがございます。
隆慶一郎さん著作のこの本なのでありますが、コミック版でも出ているのをレンタルまでして別途読んでしまっております。
はまっておりやす。
(^。^)y-.。o○


という設定での小説、「影武者徳川家康」をここのところずぅ~っと読んでおりまして。
ずいぶんとはまっております。
関ヶ原の戦いは、その後の影武者であります人物により戦いが進められ、家康の天下となるわけなのでありますが、戦後に、本多忠勝、本多正信、榊原康正、井伊直正の重臣+息子の徳川秀忠のみがこの事実を知ることになるのでありますが、ここで家康死すとなりますとまだまだ大名たちを秀忠では押さえることすらできないため、影武者がこのまま家康役を続けることになるのであります。
親孝行の仮面ほかぶった秀忠との暗闘やら、側室達を味方につけてしまう影武者の人間味。実に面白いものがございます。
隆慶一郎さん著作のこの本なのでありますが、コミック版でも出ているのをレンタルまでして別途読んでしまっております。
はまっておりやす。
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by sinsama2
| 2011-09-03 21:37
| 歴史探訪
土曜日にドラ娘の前撮を行ったことは、下に記載しておりますが、その際。
待ち時間がかなりございましたので、スタジオの近くを散歩しておりました。
津の市役所の近所でしたので、昔の安濃津城跡をブラブラと見ておりました。
津のお城は、藤堂高虎公が建てたことで有名なお城でございます。藤堂さんの前にも、お城はございまして、織田信長の弟である織田信包が最初に築き、大河ドラマで有名な「江姫さん」が小谷山城落城の後、一時住んでいたお城でもございます。
さすがに、大河の看板までありましたなぁ~

このお城、徳川の世になり、藤堂高虎公が大々的に築き直しているのでございまして、ちゃ~~んと、銅像までございました。藤堂さん、豊臣秀吉亡き後の変わり身の早さで有名ではございますが、元々、秀吉の弟、大和大納言豊臣秀長公の古くからの重臣でございまして、秀吉さんにはさほどの恩義は感じていなかったという説もございます。

この城跡、今では公園になっております。
(^。^)y-.。o○


待ち時間がかなりございましたので、スタジオの近くを散歩しておりました。
津の市役所の近所でしたので、昔の安濃津城跡をブラブラと見ておりました。
津のお城は、藤堂高虎公が建てたことで有名なお城でございます。藤堂さんの前にも、お城はございまして、織田信長の弟である織田信包が最初に築き、大河ドラマで有名な「江姫さん」が小谷山城落城の後、一時住んでいたお城でもございます。
さすがに、大河の看板までありましたなぁ~

このお城、徳川の世になり、藤堂高虎公が大々的に築き直しているのでございまして、ちゃ~~んと、銅像までございました。藤堂さん、豊臣秀吉亡き後の変わり身の早さで有名ではございますが、元々、秀吉の弟、大和大納言豊臣秀長公の古くからの重臣でございまして、秀吉さんにはさほどの恩義は感じていなかったという説もございます。

この城跡、今では公園になっております。
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by sinsama2
| 2011-08-23 21:33
| 歴史探訪
我が家の奥さん、本日が誕生日ということもございまして、年度初めの時期にもかかわらず、仕事のお休みをいただきまして、ドライブがてら、滋賀県の近江八幡市まで足を伸ばしたところであります。
国道421号線の難所でありました石欂峠のトンネルが開通したこともありまして、鈴鹿山脈の山越えルートであります。さすがに、かなり道路の通行が楽になりましたなぁ~
峠を下って、この、国道421号線をまっすぐ行きますと、近江八幡に至ります。
近江八幡は、元々、400年ほど前に、豊臣秀吉の甥であります、豊臣秀次が築城した八幡城の城下町が元となったとのことでありまして、その後、秀次が秀吉から切腹を申しつけられた以降は、廃城となり、近江商人の町として栄えて現在に至るとのことであります。
このように、街並みの景観が、古き時代を偲ばせる、落ち着いたたたずまいでありました。

市街地の一番北端に、城山がございまして、その麓に、八幡堀という水路がございます。これが、とても落ち着いた景観でありまして、桜の満開の光景と実にマッチしておりました。
実にラッキーな時期に行くことが出来まして、我が家の奥さん、ご満悦でございます。^^



八幡城山には、ロープーウェイがございました。4分程度で、頂上に到着であります。現在は、日蓮宗のお寺がございまして、山頂から市街地の眺めがとても良いものがございました。


城跡の石垣は、昔のものが残っているとのことであります。

小春日和の気持ちの良い散歩になりましたなぁ~
(^。^)y-.。o○
国道421号線の難所でありました石欂峠のトンネルが開通したこともありまして、鈴鹿山脈の山越えルートであります。さすがに、かなり道路の通行が楽になりましたなぁ~
峠を下って、この、国道421号線をまっすぐ行きますと、近江八幡に至ります。
近江八幡は、元々、400年ほど前に、豊臣秀吉の甥であります、豊臣秀次が築城した八幡城の城下町が元となったとのことでありまして、その後、秀次が秀吉から切腹を申しつけられた以降は、廃城となり、近江商人の町として栄えて現在に至るとのことであります。
このように、街並みの景観が、古き時代を偲ばせる、落ち着いたたたずまいでありました。

市街地の一番北端に、城山がございまして、その麓に、八幡堀という水路がございます。これが、とても落ち着いた景観でありまして、桜の満開の光景と実にマッチしておりました。
実にラッキーな時期に行くことが出来まして、我が家の奥さん、ご満悦でございます。^^



八幡城山には、ロープーウェイがございました。4分程度で、頂上に到着であります。現在は、日蓮宗のお寺がございまして、山頂から市街地の眺めがとても良いものがございました。


城跡の石垣は、昔のものが残っているとのことであります。

小春日和の気持ちの良い散歩になりましたなぁ~
(^。^)y-.。o○
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by sinsama2
| 2011-04-13 21:13
| 歴史探訪
水野勝成という人物でございますが、あまりメジャーな方ではございません。
福山10万石の開祖でございます、戦国の武将であります。
以前より、気になっていました人物でございまして、この方の小説は無いものかと探しておりましたところ、集英社文庫におきまして、「血槍三代」という題名にて、3冊の分厚い版として出ておりました。
この方、実に面白い生涯を送られております。武辺者としてめっぽう戦が強く、女性にもてるのでございます。元々、三河刈谷4万石(愛知県刈谷市)の御曹司でありましたが、親父とケンカをしまして、城を飛びだし流浪の旅を続けております。
また、この方は、徳川家康の母君であります、お代の方の血縁にあたりまして、家康とはいとこ同士の間柄であります。
流浪の果てには、九州の熊本にて、佐々成政の客将となり、一揆勢との戦いで大活躍をするものの、成政の切腹のため、浪人することになります。その後、加藤清正、小西行長、黒田如水と仕えるものの、さまざまな事件に巻き込まれ、飛び出して流浪することになります。
面白いのが、行く先行く先の、公家の姫君やら女忍者やら女盗賊やらさまざまな女性との、◎◎であります。忍びこんでの◎◎をした後でも、その女性が逆に惚れてしまい離さないような状態でございます。電車の中での立ち読みに、少々困ることもありましたなぁ~ にゃはははは ♫
まあ、最終的には、関ヶ原の戦の前付近で、家康の元に戻り、大名として活躍することになるのですが、この、水野勝成の末裔には、数々の江戸幕府での老中を輩出するのでございます。天保の改革で有名な、水野忠邦。悪役老中として、テレビでもおなじみの、水野忠成などなどでございます。
結構時間がかかりましたが、面白い読み物であります。
(^。^)y-.。o○

福山10万石の開祖でございます、戦国の武将であります。
以前より、気になっていました人物でございまして、この方の小説は無いものかと探しておりましたところ、集英社文庫におきまして、「血槍三代」という題名にて、3冊の分厚い版として出ておりました。
この方、実に面白い生涯を送られております。武辺者としてめっぽう戦が強く、女性にもてるのでございます。元々、三河刈谷4万石(愛知県刈谷市)の御曹司でありましたが、親父とケンカをしまして、城を飛びだし流浪の旅を続けております。
また、この方は、徳川家康の母君であります、お代の方の血縁にあたりまして、家康とはいとこ同士の間柄であります。
流浪の果てには、九州の熊本にて、佐々成政の客将となり、一揆勢との戦いで大活躍をするものの、成政の切腹のため、浪人することになります。その後、加藤清正、小西行長、黒田如水と仕えるものの、さまざまな事件に巻き込まれ、飛び出して流浪することになります。
面白いのが、行く先行く先の、公家の姫君やら女忍者やら女盗賊やらさまざまな女性との、◎◎であります。忍びこんでの◎◎をした後でも、その女性が逆に惚れてしまい離さないような状態でございます。電車の中での立ち読みに、少々困ることもありましたなぁ~ にゃはははは ♫
まあ、最終的には、関ヶ原の戦の前付近で、家康の元に戻り、大名として活躍することになるのですが、この、水野勝成の末裔には、数々の江戸幕府での老中を輩出するのでございます。天保の改革で有名な、水野忠邦。悪役老中として、テレビでもおなじみの、水野忠成などなどでございます。
結構時間がかかりましたが、面白い読み物であります。
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by sinsama2
| 2011-03-29 21:06
| 歴史探訪
実に面白い本をあっという間に読み切ってしまいました。
「のぼうの城」という、当然ながら歴史小説でございます。
「のぼう」とは、「でくのぼう」という意味だそうでありまして、周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城の領主・成田氏一門の成田長親がその人であります。領民からも、侍からも面と向かって「のぼう様」と呼ばれている人物であります。
物語は、天下統一目前の豊臣秀吉による、小田原城攻めの一環としての戦いでありますが、唯一、落城させることに失敗している城であります。豊臣がたの大将は、あの関ヶ原の戦いで有名な、石田光成。その三成率いる二万超の軍勢に、農民らを含めても二千強の城方であります。
でくのぼうの城代の「のぼう様」の不思議な役回りが実に面白いものがございました。
この小説、来年の2011年には映画化されるとのこと。ぜひ、観てみたい映画であります。
キャストが、これまた面白そうなのであります。「のぼう様」こと成田長親役が野村萬斎さん、家老の戦人である正木丹波守利英こと、佐藤浩市さん、知謀の若大将である酒巻靭負こと成宮寛貴さん、力強い猪武者どある柴崎和泉守こと山口智充さんというキャストのようであります。
そして、気の強い男まさりのお姫様である甲斐姫こと榮倉奈々さんが扮します。石田三成が上地雄輔さん、大谷吉継が山田孝之さんであります。
楽しみでんなぁ~
(^。^)y-.。o○


「のぼうの城」という、当然ながら歴史小説でございます。
「のぼう」とは、「でくのぼう」という意味だそうでありまして、周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城の領主・成田氏一門の成田長親がその人であります。領民からも、侍からも面と向かって「のぼう様」と呼ばれている人物であります。
物語は、天下統一目前の豊臣秀吉による、小田原城攻めの一環としての戦いでありますが、唯一、落城させることに失敗している城であります。豊臣がたの大将は、あの関ヶ原の戦いで有名な、石田光成。その三成率いる二万超の軍勢に、農民らを含めても二千強の城方であります。
でくのぼうの城代の「のぼう様」の不思議な役回りが実に面白いものがございました。
この小説、来年の2011年には映画化されるとのこと。ぜひ、観てみたい映画であります。
キャストが、これまた面白そうなのであります。「のぼう様」こと成田長親役が野村萬斎さん、家老の戦人である正木丹波守利英こと、佐藤浩市さん、知謀の若大将である酒巻靭負こと成宮寛貴さん、力強い猪武者どある柴崎和泉守こと山口智充さんというキャストのようであります。
そして、気の強い男まさりのお姫様である甲斐姫こと榮倉奈々さんが扮します。石田三成が上地雄輔さん、大谷吉継が山田孝之さんであります。
楽しみでんなぁ~
(^。^)y-.。o○


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by sinsama2
| 2010-12-16 20:44
| 歴史探訪
小生、歴史関係の本はすこぶる好きでございまして、以前にもこのブログでは、読みました本を紹介なんぞたまぁ~らしております。たまたま、本日は比較的ヒマでございましたので、ウィキペディアというサイトで、「織田信長さん」の末裔がどの程度残っているかと調べてみましたところ、意外とかなり明治時代以降まで残っていることが判ったのであります。
織田信長さんは、あの本能寺の変にて、明智光秀に殺害されておりまして、その際、同じ京都に滞在しておりました、嫡男であります、「織田信忠」まで亡くなっております。そのため、時代が変わりまして、秀吉の天下にうまいことなったところであります。
嫡男の信忠には、二人の男子がございます。一人は、有名な織田秀信でございまして、関ヶ原の戦いで西軍に加わり、岐阜城を守備しておりましたが、落城し高野山に追放され、その子息も存在していたようですが、あまり定かにはなっておりません。もう一人は、織田秀則でありまして、同じく岐阜城で戦っておりましたが、落城後は大阪城に入り、途絶えております。
次男であります、織田信雄さん、あまり出来が良い方ではありませんでして、一時は、尾張・伊賀・南伊勢約100万石を領するほどまで行きますが、秀吉に良いように利用されまして没落していきまして、最終的には、大和国宇陀郡、上野国甘楽郡の5万石で落ち着きます。その子孫と言いますと、3系統に分かれて明治時代に至るとされております。一つは、江戸末期に出羽国天童藩2万石と続き、明治に子爵を賜ります。二つ目は、江戸末期に丹波柏原藩2万石と続き、これも明治時代に子爵を賜ります。また、三つ目の系統も、3000石の高家旗本として続いております。
三男の信孝さんは、比較的出来が良い方のようでしたので、秀吉から追い落としをかけられ、次男の信雄を利用して、自害させられてしまいます。
四男の秀勝さんは、秀吉の養子として、羽柴秀勝と名乗っておりまして、18歳の若さで丹波亀山城で病死しております。
五男の勝長さんは、武田家への人質となっておりましたが、返されて犬山城主となり、本能寺の変にて、嫡男信忠ともども亡くなっております。
六男の信秀さんは、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えることになりますが、これも、23歳の若さで病死しております。
七男の信高さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えており、2000石ほどの所領を得ていたようでありますが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し一端没落しますが、2000石の旗本として徳川家より取り立てられ、高家旗本として明治まで続いております。スケートの織田選手は、この系統だと言われております。
八男の信吉さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えることになり、これまた関ヶ原の戦いにより西軍に加わり、敗戦後大阪城に入りますが、これまた落城し、その後京都で亡くなります。子孫は、水戸の津田家として続いているとのことであります。
九男の信貞さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えており、1000石ほどの所領を得ていたようでありますが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し一端没落しますが、徳川家に取り立てられ、1000石および300石の旗本として明治まで続いております。
十男の信好さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えておりましたが、かなり若い時期に亡くなっております。
末子の長次さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えており、関ヶ原の戦いの際に、戦死されております。
その他にも、信長の兄弟でも、織田信包さんの系統が、丹波柏原 3万6000石として残りますが、途中で途絶えております。
また、有名な弟であります、織田長益さん。有楽町の名の元になる有楽斉さんでありまして、大和の国 3万2000石として大名として残ります。その子孫も、二つの系統として、大和柳本藩1万石、大和戒重藩1万石として明治までしっかり残っておりまして、いずれも子爵を賜っております。
それにしても、歴史とは、ずいぶんと重みがありますなぁ~
自分の先祖は、いったいどこからきているのでっしゃろか。さっぱり不明であります。
(^。^)y-.。o○
織田信長さんは、あの本能寺の変にて、明智光秀に殺害されておりまして、その際、同じ京都に滞在しておりました、嫡男であります、「織田信忠」まで亡くなっております。そのため、時代が変わりまして、秀吉の天下にうまいことなったところであります。
嫡男の信忠には、二人の男子がございます。一人は、有名な織田秀信でございまして、関ヶ原の戦いで西軍に加わり、岐阜城を守備しておりましたが、落城し高野山に追放され、その子息も存在していたようですが、あまり定かにはなっておりません。もう一人は、織田秀則でありまして、同じく岐阜城で戦っておりましたが、落城後は大阪城に入り、途絶えております。
次男であります、織田信雄さん、あまり出来が良い方ではありませんでして、一時は、尾張・伊賀・南伊勢約100万石を領するほどまで行きますが、秀吉に良いように利用されまして没落していきまして、最終的には、大和国宇陀郡、上野国甘楽郡の5万石で落ち着きます。その子孫と言いますと、3系統に分かれて明治時代に至るとされております。一つは、江戸末期に出羽国天童藩2万石と続き、明治に子爵を賜ります。二つ目は、江戸末期に丹波柏原藩2万石と続き、これも明治時代に子爵を賜ります。また、三つ目の系統も、3000石の高家旗本として続いております。
三男の信孝さんは、比較的出来が良い方のようでしたので、秀吉から追い落としをかけられ、次男の信雄を利用して、自害させられてしまいます。
四男の秀勝さんは、秀吉の養子として、羽柴秀勝と名乗っておりまして、18歳の若さで丹波亀山城で病死しております。
五男の勝長さんは、武田家への人質となっておりましたが、返されて犬山城主となり、本能寺の変にて、嫡男信忠ともども亡くなっております。
六男の信秀さんは、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えることになりますが、これも、23歳の若さで病死しております。
七男の信高さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えており、2000石ほどの所領を得ていたようでありますが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し一端没落しますが、2000石の旗本として徳川家より取り立てられ、高家旗本として明治まで続いております。スケートの織田選手は、この系統だと言われております。
八男の信吉さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えることになり、これまた関ヶ原の戦いにより西軍に加わり、敗戦後大阪城に入りますが、これまた落城し、その後京都で亡くなります。子孫は、水戸の津田家として続いているとのことであります。
九男の信貞さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えており、1000石ほどの所領を得ていたようでありますが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し一端没落しますが、徳川家に取り立てられ、1000石および300石の旗本として明治まで続いております。
十男の信好さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えておりましたが、かなり若い時期に亡くなっております。
末子の長次さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えており、関ヶ原の戦いの際に、戦死されております。
その他にも、信長の兄弟でも、織田信包さんの系統が、丹波柏原 3万6000石として残りますが、途中で途絶えております。
また、有名な弟であります、織田長益さん。有楽町の名の元になる有楽斉さんでありまして、大和の国 3万2000石として大名として残ります。その子孫も、二つの系統として、大和柳本藩1万石、大和戒重藩1万石として明治までしっかり残っておりまして、いずれも子爵を賜っております。
それにしても、歴史とは、ずいぶんと重みがありますなぁ~
自分の先祖は、いったいどこからきているのでっしゃろか。さっぱり不明であります。
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by sinsama2
| 2010-12-11 23:31
| 歴史探訪
世の中には、補佐役に徹して名を残された歴史上の人物は少ないながらもございます。
小生、戦国物の歴史小説を数多く読んでおまして・・・
まず、第一人者は、豊臣秀吉の実弟であります、大和大納言、豊臣秀長さんだと思っております。
一番好きな武将でございまして、徳川家康ぐらい長生きしていたとすれば、豊臣政権が続いていたものと思われます。
第二番手が、上杉景勝の宿老、直江兼続でっしゃろなぁ~
有名にお方であります。
そして・・・
最近、読みました本にて、明智光秀の第一の右腕であります、明智秀満さんでは・・
なんて、思ったりしております。
彼は、明智光秀の従兄だとも言われておりまして、美濃国明智城が落城した際に、光秀と秀満は城から落ち延び、それぞれ、浪々の日々を過ごすことになるのでありますが、光秀が織田信長に仕える前あたりから、光秀の片腕として活躍を始めております。光秀が、信長に仕えるようになってからは、主君の光秀よりも信長から信頼されていたとも伝えられているとか。
残念ながら、本能寺の変の後、山崎の合戦時には、安土城の守備に回っておりまして、琵琶湖の「湖水渡り」を行い、近江坂本城に戻って明智一党の最後を飾ったとして名を馳せた“智勇兼備の将”でございます。
補佐役の仕事はかなり難しいものなのでありますなぁ~
(^。^)y-.。o○

小生、戦国物の歴史小説を数多く読んでおまして・・・
まず、第一人者は、豊臣秀吉の実弟であります、大和大納言、豊臣秀長さんだと思っております。
一番好きな武将でございまして、徳川家康ぐらい長生きしていたとすれば、豊臣政権が続いていたものと思われます。
第二番手が、上杉景勝の宿老、直江兼続でっしゃろなぁ~
有名にお方であります。
そして・・・
最近、読みました本にて、明智光秀の第一の右腕であります、明智秀満さんでは・・
なんて、思ったりしております。
彼は、明智光秀の従兄だとも言われておりまして、美濃国明智城が落城した際に、光秀と秀満は城から落ち延び、それぞれ、浪々の日々を過ごすことになるのでありますが、光秀が織田信長に仕える前あたりから、光秀の片腕として活躍を始めております。光秀が、信長に仕えるようになってからは、主君の光秀よりも信長から信頼されていたとも伝えられているとか。
残念ながら、本能寺の変の後、山崎の合戦時には、安土城の守備に回っておりまして、琵琶湖の「湖水渡り」を行い、近江坂本城に戻って明智一党の最後を飾ったとして名を馳せた“智勇兼備の将”でございます。
補佐役の仕事はかなり難しいものなのでありますなぁ~
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by sinsama2
| 2010-11-01 20:43
| 歴史探訪
丁度、火曜日に豊橋へ出張して、路面電車の記事を先に記載したところでございますが、その日のお昼休みの時間帯を利用いたしまして、片道10分程度の散歩を兼ねまして、お城がございます豊橋公園までぶらぶらとしておりました。
このお城は、吉田城と言われまして、戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われたとのことであります。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たしてございます。
今では、模擬再建されております、鉄櫓が残ってございまして、小生が丁度行きました日には、屋根の補修工事の真っ最中でありました。
残念でやんすが、良い画像を残せませんでしたなぁ~

本丸の正面の付近でございまして、豊橋公園の真ん中となってございます。

このお城、豊川という河川を利用した、かなりの要害の地に立地していることが、この絵図の看板から判りますねぃ。。。

この公園のすぐ近所の電車通り沿いに、なかなか、素敵な建物がございまして、撮影しておきました。豊橋市公会堂であります。
(^。^)y-.。o○

このお城は、吉田城と言われまして、戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われたとのことであります。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たしてございます。
今では、模擬再建されております、鉄櫓が残ってございまして、小生が丁度行きました日には、屋根の補修工事の真っ最中でありました。
残念でやんすが、良い画像を残せませんでしたなぁ~

本丸の正面の付近でございまして、豊橋公園の真ん中となってございます。

このお城、豊川という河川を利用した、かなりの要害の地に立地していることが、この絵図の看板から判りますねぃ。。。

この公園のすぐ近所の電車通り沿いに、なかなか、素敵な建物がございまして、撮影しておきました。豊橋市公会堂であります。
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by sinsama2
| 2010-10-28 20:51
| 歴史探訪
土曜日のマラソンの後でありますが、近くに有名な、「恵林寺」というお寺がございましたので、少し立ち寄ったところであります。
恵林寺とは、臨済宗妙心寺派に属する寺院でありまして、あの歴史上有名な武田信玄により再興され、快川和尚で全国的に有名なお寺でございます。この、快川和尚は、武田氏が滅亡した際、お寺に逃げ込んだ織田の敵対者である六角義弼の引渡しを拒否したため、織田信忠軍による焼き討ちにあい、燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と発して焼死したという有名なお話がございます。

このお寺でありますが、その後、徳川氏により再建されておりまして、江戸幕府の将軍徳川綱吉時代に側用人であり、晩年に甲府城の城主となった柳沢吉保さんのの墓所もございます。
中に入りますと、庭園がこれまた素敵なのであります。


三重の塔までございまして、なかなか素敵な景観を醸し出してございます。
(^。^)y-.。o○

恵林寺とは、臨済宗妙心寺派に属する寺院でありまして、あの歴史上有名な武田信玄により再興され、快川和尚で全国的に有名なお寺でございます。この、快川和尚は、武田氏が滅亡した際、お寺に逃げ込んだ織田の敵対者である六角義弼の引渡しを拒否したため、織田信忠軍による焼き討ちにあい、燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と発して焼死したという有名なお話がございます。

このお寺でありますが、その後、徳川氏により再建されておりまして、江戸幕府の将軍徳川綱吉時代に側用人であり、晩年に甲府城の城主となった柳沢吉保さんのの墓所もございます。
中に入りますと、庭園がこれまた素敵なのであります。


三重の塔までございまして、なかなか素敵な景観を醸し出してございます。
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by sinsama2
| 2010-09-20 21:47
| 歴史探訪