2006.3.4 慎之介の軌跡 その2
2006年 03月 04日
前回は、伊勢湾台風に被災した結果、港区の仮設住宅に住むことになった、と記載したところで終わっております。
実は、仮設住宅がそのまま、名古屋市営住宅に移行することになり、かなり安い家賃で住めるようになったと聞いております。被災直後は、被災者への物資でなんとか生活が出来ていたようでありますが、いつまでもそれが続くわけではございません。
乳飲み子を抱え、仕事に出るわけにもいかない母は、内職で細々と生活をしていたようでありまして、相当に苦しい生活をしていたようであります。
そうこうしている内に、同じ被災者であります、近所の40代前半の男性が母の所によく遊びにくるようになった、と聞き及んでおります。その男性が、後に、小生の育ての父親となるわけでございます。以後「オヤジ」と記載させていただきます。
そのオヤジについて、簡単に記載いたします。仕事は当時から中部電力の下請け企業に勤務しておりまして、火力発電所の現場で働いておりました。オヤジの息子が2人、娘が1人おりまして、上の息子はすでに職人として住み込みで働いており、下の息子はかなりグレておりまして、街中を闊歩していたそうでありまして、後には完全な「組員」となります。娘は当時中学生ぐらいとのことでありまして、仮設住宅には当時、オヤジと娘が暮らしていたのだと思われます。
オヤジと母の交流がだんだんと深まるようになりますと、オヤジの娘が学校が終わった後に小生の面倒を見てくれるようになった、ようでありまして、その後には、母も少しの時間帯だけ仕事に出れるようになったようであります。
その娘(義理の姉)が中学を卒業する頃には、母とオヤジは「一緒に住もう」ということになったようでありまして、小生が3歳頃でしょうか、港区の市営住宅から中川区の市営住宅に移転をし、母とオヤジと小生の3人で暮らすようになったと聞き及んでおります。
小生自身としましては、港区での記憶は一切ございません。1~3歳ということなので、当然でありますが・・・・・・
2回めは、このあたりで失礼いたします。
実は、仮設住宅がそのまま、名古屋市営住宅に移行することになり、かなり安い家賃で住めるようになったと聞いております。被災直後は、被災者への物資でなんとか生活が出来ていたようでありますが、いつまでもそれが続くわけではございません。
乳飲み子を抱え、仕事に出るわけにもいかない母は、内職で細々と生活をしていたようでありまして、相当に苦しい生活をしていたようであります。
そうこうしている内に、同じ被災者であります、近所の40代前半の男性が母の所によく遊びにくるようになった、と聞き及んでおります。その男性が、後に、小生の育ての父親となるわけでございます。以後「オヤジ」と記載させていただきます。
そのオヤジについて、簡単に記載いたします。仕事は当時から中部電力の下請け企業に勤務しておりまして、火力発電所の現場で働いておりました。オヤジの息子が2人、娘が1人おりまして、上の息子はすでに職人として住み込みで働いており、下の息子はかなりグレておりまして、街中を闊歩していたそうでありまして、後には完全な「組員」となります。娘は当時中学生ぐらいとのことでありまして、仮設住宅には当時、オヤジと娘が暮らしていたのだと思われます。
オヤジと母の交流がだんだんと深まるようになりますと、オヤジの娘が学校が終わった後に小生の面倒を見てくれるようになった、ようでありまして、その後には、母も少しの時間帯だけ仕事に出れるようになったようであります。
その娘(義理の姉)が中学を卒業する頃には、母とオヤジは「一緒に住もう」ということになったようでありまして、小生が3歳頃でしょうか、港区の市営住宅から中川区の市営住宅に移転をし、母とオヤジと小生の3人で暮らすようになったと聞き及んでおります。
小生自身としましては、港区での記憶は一切ございません。1~3歳ということなので、当然でありますが・・・・・・
2回めは、このあたりで失礼いたします。
by sinsama2
| 2006-03-04 18:30
| 慎之介の軌跡