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人生今後とも楽しく生きるための糧


by sinsama2
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2010.12.11 少し調べてみました

 小生、歴史関係の本はすこぶる好きでございまして、以前にもこのブログでは、読みました本を紹介なんぞたまぁ~らしております。たまたま、本日は比較的ヒマでございましたので、ウィキペディアというサイトで、「織田信長さん」の末裔がどの程度残っているかと調べてみましたところ、意外とかなり明治時代以降まで残っていることが判ったのであります。

 織田信長さんは、あの本能寺の変にて、明智光秀に殺害されておりまして、その際、同じ京都に滞在しておりました、嫡男であります、「織田信忠」まで亡くなっております。そのため、時代が変わりまして、秀吉の天下にうまいことなったところであります。

 嫡男の信忠には、二人の男子がございます。一人は、有名な織田秀信でございまして、関ヶ原の戦いで西軍に加わり、岐阜城を守備しておりましたが、落城し高野山に追放され、その子息も存在していたようですが、あまり定かにはなっておりません。もう一人は、織田秀則でありまして、同じく岐阜城で戦っておりましたが、落城後は大阪城に入り、途絶えております。

 次男であります、織田信雄さん、あまり出来が良い方ではありませんでして、一時は、尾張・伊賀・南伊勢約100万石を領するほどまで行きますが、秀吉に良いように利用されまして没落していきまして、最終的には、大和国宇陀郡、上野国甘楽郡の5万石で落ち着きます。その子孫と言いますと、3系統に分かれて明治時代に至るとされております。一つは、江戸末期に出羽国天童藩2万石と続き、明治に子爵を賜ります。二つ目は、江戸末期に丹波柏原藩2万石と続き、これも明治時代に子爵を賜ります。また、三つ目の系統も、3000石の高家旗本として続いております。

 三男の信孝さんは、比較的出来が良い方のようでしたので、秀吉から追い落としをかけられ、次男の信雄を利用して、自害させられてしまいます。

 四男の秀勝さんは、秀吉の養子として、羽柴秀勝と名乗っておりまして、18歳の若さで丹波亀山城で病死しております。

 五男の勝長さんは、武田家への人質となっておりましたが、返されて犬山城主となり、本能寺の変にて、嫡男信忠ともども亡くなっております。

 六男の信秀さんは、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えることになりますが、これも、23歳の若さで病死しております。

 七男の信高さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えており、2000石ほどの所領を得ていたようでありますが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し一端没落しますが、2000石の旗本として徳川家より取り立てられ、高家旗本として明治まで続いております。スケートの織田選手は、この系統だと言われております。

 八男の信吉さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えることになり、これまた関ヶ原の戦いにより西軍に加わり、敗戦後大阪城に入りますが、これまた落城し、その後京都で亡くなります。子孫は、水戸の津田家として続いているとのことであります。

 九男の信貞さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えており、1000石ほどの所領を得ていたようでありますが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し一端没落しますが、徳川家に取り立てられ、1000石および300石の旗本として明治まで続いております。
 
 十男の信好さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えておりましたが、かなり若い時期に亡くなっております。

 末子の長次さんも、本能寺の変の後、成長してからは秀吉に仕えており、関ヶ原の戦いの際に、戦死されております。

 その他にも、信長の兄弟でも、織田信包さんの系統が、丹波柏原 3万6000石として残りますが、途中で途絶えております。
 また、有名な弟であります、織田長益さん。有楽町の名の元になる有楽斉さんでありまして、大和の国 3万2000石として大名として残ります。その子孫も、二つの系統として、大和柳本藩1万石、大和戒重藩1万石として明治までしっかり残っておりまして、いずれも子爵を賜っております。

 それにしても、歴史とは、ずいぶんと重みがありますなぁ~

 自分の先祖は、いったいどこからきているのでっしゃろか。さっぱり不明であります。

 (^。^)y-.。o○
by sinsama2 | 2010-12-11 23:31 | 歴史探訪