2010.3.7 織田信忠
2010年 03月 07日
それにしても、ここのところよく雨が降りますなぁ~ 外に出ますと、なんだか冷え冷えしてしまいますがな~ こんなときは、暖かい所で音楽でも聞きながら、読書するのも良いですなぁ。。。
近藤龍春さん著作の、「織田信忠」を読んでおりました。織田信忠とは、あの有名な、織田信長の嫡男でありまして、本能寺の変にて、親子ともども、明智光秀の軍勢に討たれてしまっております。
信忠さん、早い時期から、信長の後継者として位置づけられていたようでありまして、信長ほどではなかったとしても、比較的人格的にもしっかりとした人物だったようであります。
父親の信長には、他の家臣同様、厳しい対応をされていたようでして、反抗的な言葉なぞ絶対に出来なかったようなのであります。
この、信忠さんが本格的に活躍したのが、武田勝頼攻めであります。凋落しておりました武田家を相手ながら、かなり強気で攻め入っていたとか。周囲の織田家重臣達の協力もかなりあったのでしょうが、二男の信雄あたりとは出来がかなり違っておりました。
本能寺の変の際には、居城の岐阜城あたりへ逃れようと思えば逃れられたようですが、あえて逃げることはしなかったため、二条城で亡くなられております。
信長の弟であります、織田有楽斉も信忠と当初は同行していたようなのでありますが、真っ先に逃れて、織田の血筋が現代まで残っております。
もし、信忠が本能寺の変で生き残っていたら、織田幕府が出来て、違った歴史となっていたであろう、とまで言われております。
近藤龍春さん著作の、「織田信忠」を読んでおりました。織田信忠とは、あの有名な、織田信長の嫡男でありまして、本能寺の変にて、親子ともども、明智光秀の軍勢に討たれてしまっております。
信忠さん、早い時期から、信長の後継者として位置づけられていたようでありまして、信長ほどではなかったとしても、比較的人格的にもしっかりとした人物だったようであります。
父親の信長には、他の家臣同様、厳しい対応をされていたようでして、反抗的な言葉なぞ絶対に出来なかったようなのであります。
この、信忠さんが本格的に活躍したのが、武田勝頼攻めであります。凋落しておりました武田家を相手ながら、かなり強気で攻め入っていたとか。周囲の織田家重臣達の協力もかなりあったのでしょうが、二男の信雄あたりとは出来がかなり違っておりました。
本能寺の変の際には、居城の岐阜城あたりへ逃れようと思えば逃れられたようですが、あえて逃げることはしなかったため、二条城で亡くなられております。
信長の弟であります、織田有楽斉も信忠と当初は同行していたようなのでありますが、真っ先に逃れて、織田の血筋が現代まで残っております。
もし、信忠が本能寺の変で生き残っていたら、織田幕府が出来て、違った歴史となっていたであろう、とまで言われております。
by sinsama2
| 2010-03-07 20:20
| 歴史探訪