人生今後とも楽しく生きるための糧


by sinsama2
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カテゴリ:慎之介の軌跡( 10 )

2010.4.20 幼児期の光景

 最近でありますが、ふとした時に・・・・

 何故か自分の幼児期に体験した光景が目に浮かぶことが多いのですが。

 不思議と、同じ光景なのであります。


 幼い自分が、母親に手を引かれて・・・


 アーケードのある商店街の歩道を、ひたすら歩いている光景であります。

 それも、冬の寒い時期の夜、クリスマスの時期でっしゃろか。。。。

 お店で、何かを買ってもらう訳でもなく・・・・

 ひたすら、歩いているのでやんす。


 なんだか、物悲しさすら漂わせる光景。

 何ででっしゃろか ?

 ジジイになった証拠でっしゃろか ?

 毎度、同じ光景なのであります。

 (^。^)y-.。o○

 
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by sinsama2 | 2010-04-20 21:32 | 慎之介の軌跡
 ずいぶんと久しぶりであります。イトコのウシちゃんのリクエストにお答えしますかね~^^

 今回は名付けて、「木下大サーカス」とでも命題いたします。とにかく、小生の小学校の前半の一番の思い出であります。連れて行ってもらったのが、義理の兄でありました。

 小生の当時の家庭内状況でありますが、母と育ての父(オヤジ)との3人の生活でありました。実は、オヤジには、大きな子供達が3人すでにおりまして、一番上の兄は、当時すでに結婚されて独立をし、職人として働いていたような記憶であります。

 また、真ん中の兄は、当時は、完璧な、ヤッチャンでありまして、確か、○○一家△△組のれっきとした組員でありました。その兄も、高級クラブのホステスさんと入籍しておりました。
 その下の姉も、お水系のお仕事でありまして、同棲しており、それぞれ、一応は自立しておりましたのであります。

 実は、、「木下大サーカス」に連れて行ってもらったのが、真ん中の、ヤッチャンの兄であります。この世界、羽振りが良い時は、なかなか豪勢のようなのでありまして、ある日、名古屋の大須にありました、アパートに泊めてもらったことがございます。

 確か、銭湯の3階にありました、アパートという記憶であります。あの時は、上寿司はご馳走になるは、なんだか至れり尽くせりの歓待を受けたような記憶がございます。
 当時の奥さんも、相当な美人だったような記憶がありましたが、少しばかり影があったような感じの女性でありました。

 その兄は、ヤッチャンでありますので、当然にコワモテでありました。金ピカの腕時計やら、散りばめておりましたなぁ~  今、対面しようものなら、恐ろしくて話しも出来ませんが、子供の小生には、ニコニコとしておりまして、優しい感じの兄だったような記憶がございます。

 その時に、兄から、「サーカス来ているから行くか?」とのお誘いに、飛びつきましたがな。^^
美人の奥さんと兄を入れて3人で見物したような記憶であります。
 当時の小生にとりましては、夢ごごちの気分でしたね~ ダイナミックな空中ブランコのシーンが未だに記憶に残っております。サーカスのライブなんぞ、それ以来、一度も行ったことありません。良い思い出なのであります。^^

 その、真ん中の兄とは、小生が20歳の時のオヤジの葬儀以来、全く顔すら会わせてはおりませんなぁ~
 今だ健在でやんすかね~^^

 (^_^)v
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by sinsama2 | 2008-07-21 18:41 | 慎之介の軌跡
 せっかく新しいカテゴリーを作ってあったのにかかわらず、一昨年の5月から更新をしていないことに気がついたのであります。「慎之介の軌跡」でありますが、小学校2年生で止まったままになっておりましたがなぁ~^^

 とりあえず、復活であります。小生、小学校の2年生に、名古屋市の中川区富田町から緑区大高町という所に引っ越しをしております。引っ越し先も、中川区と同様の木造市営住宅なのでございました。今回は、2軒長屋ではありませんでして、一応戸建のオンボロ住宅。当然、風呂もありませんでしたなぁ~

 大高町という所でありますが、元々知多郡大高町なのでありまして、名古屋市に編入されたのが、確か、昭和30年代の後半だと記憶しております。当時は、名古屋市とは言え、相当の田舎でありまして、良く言えば緑豊かな所なのでございました。

 大高町は、歴史的にはかなり由緒のある所なのであります。あの、織田信長が桶狭間の戦いでかなり関係していた所であります。町内には、大高城跡がありまして、今は城跡公園となっておりますが、桶狭間の時代には、今川義元側の最前線の出城でありました。桶狭間では、今川方でした、徳川家康が、大高城へ兵糧を入れたと歴史には綴られております。

 また、町内には、桶狭間の戦いの前哨戦として、今川方に攻められ落とされた、織田方の砦であります、鷲津砦、丸根砦の跡地もありまして、小学校の遠足には良く行ったものであります。当然に、桶狭間の合戦跡地にも長い距離を歩かされて、遠足に行った記憶がございます。

 さて、引っ越しをしたての小生なのでありますが、当然、登校には近所のガキ連中と集団登校をしておりました。一番嫌な思い出なのでありますが、当時登校の集合場所におきまして、新入りということで一学年上の子供とケンカをして、こてんぱんにやられてしまい、その後ず~っと登校時にはイジメにあってしまいました。家も周囲の家庭に比べて、貧しかったこともありまして、かなり執拗に虐められた記憶がございます。

 さすがに、小生、イジメに耐えきれず、集団登校を止めまして、一人で登校を2年ぐらい続けたような記憶がございます。今思いますと、逆に、一人登校の方が気楽でしたなぁ~
 まあ、イジメの方は、小学校4年ぐらいからは、イジメていた側より、勉強が出来るようになったことが幸いしたのでしようか、無くなりましたが、忌まわしい記憶であります。

 あまり、記憶がよみがえって参りませんですな~ とりあえず、今回はこんな所であります。前回までの、このカテゴリの文章は、ブログ左中頃のカテゴリ「慎之介の軌跡」からお入りましたら見ることが出来ます。

 史跡大高城跡であります。

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 (^_^)v
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by sinsama2 | 2008-01-13 17:02 | 慎之介の軌跡

2006.9.14 生麦病院

 横浜に「生麦病院」という病院がございます。以前でありますが、「慎之介の軌跡」という、このカテゴリのNO1におきまして、小生の亡き母親が、若い頃に看護婦として働いていたことを記載しました。

 このことを、横浜在住の友人「みっきーさん」が、忙しい時間を工面していただきまして、今でも存在する「生麦病院」の写真を撮影して送ってくださいました。
 ありがたいことでございます。感謝ですわ~
 これが、正面玄関ですかね~

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 なんと、三階建ての建物なんですね~ 亡き母は、大正15年生れで、23歳頃から働いていたのかと思います。古い建物なんですなー

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 結構敷地が広そうであります。大きな病院なのですね~

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 当時の母が映っている写真が唯一、一枚だけありましたので、携帯で撮影しておきました。向かって右側の女性が母だと聞いております。

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by sinsama2 | 2006-09-14 21:39 | 慎之介の軌跡
 一ヶ月ぶりの更新であります。どこまで書いたのか・・・・・忘れてしまいそうであります。

 小生が小学校に入学する前のことまで、確か記載しておりましたです。小生が入学いたしました小学校は、名古屋市立千音寺小学校でありました。今では、東名阪自動車道の名古屋西インターの付近でありますが、小生の頃は、田んぼの中にポツンと建っていた学校では?との記憶しかございません。

 なにしろ、千音寺小学校では、1年生だけの1年しか在籍しておりませんでした。覚えているのは、担任の先生で、確か「佐藤先生」という、優しい女性の先生でした。
 当時は、泣き虫慎之介でございましたので、かなり担任の先生の手を煩わしていたことだと思います。それでも、まだこの頃は、小児結核が治りかけの頃でありましたので、体育の授業だけは見学でした。あとは、どのような授業をしたのか、全く覚えがございませんです。

 それとでありますが、1年生の頃は、どのような友人と遊んでいたのかも、記憶から抜け落ちておりまして、唯一覚えていることは、校舎の外階段で、1階と2階の中間点から、傘を持ち、「パラシュート」ごっこをして、遊んでいたのが唯一の記憶であります。

 記憶というものは、ホント、遠ざかるものであります。今回は、この程度で失礼させていただきたいと思います。次回は、小学校2年生からでありまして、名古屋市緑区大高町というところに引っ越すことになりますが、そのあたりから記載させていただきます。
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by sinsama2 | 2006-05-14 21:55 | 慎之介の軌跡
 このシリーズ、久しぶりに更新であります。今回は、「遠州灘の思い出」と題しましての内容であります。

 まだ、小生が小学校に入学する前の時期でありました。母が長期間仕事をするために、小生が、母の姉の家に数ヶ月預けられたことがございました。その場所は、浜松市の西にあります、「磐田郡」のとある田舎町でございました。

 そこの叔母の家庭も貧しい家庭ではありましたが、気良く小生を受け入れてくださいました。その家には、小生よりも7歳上のお兄ちゃんと4歳上のお姉ちゃんがおりまして、末っ子状態で遊んでもらいました。

 そこの叔父は、元々戦前では陸軍の大佐というエリートでございましたが、酒乱のため、戦後では自衛隊に拾われてもらえなかったようでありまして、日雇いの土方をしておりまして、稼ぎは皆、酒代に消えてしまっていたようであります。英語をしゃべれる土方ではありましたが、酒が過ぎると怖い存在でしたなー 酒が入っていない時は、優しい叔父でありました。

 したがいまして、叔母が働きに出ておりまして、生活費は叔母の給与でまかなっていたようであります。したがいまして、預けられていた小生は、昼間は一人でポツンと置いてきぼり状態でございました。その間は、近所の神社で一人で遊んでいたり、田んぼの方へ遊びに出たりしておりまして、午後になりますと、小学生の従姉が帰宅するまでは一人の状態でした。

 従姉のお姉さんは、ガラガラッとしたさつぱりした女の子でして、小生はひっついて歩いていたような記憶がございます。そして、中学生の従兄のお兄さんが帰宅するのですが、賢いお兄さんでありまして、こつこつと勉強をしていた覚えがございます。

 日曜日になりますと、従兄のお兄さんに魚釣りやら、遠州灘の海岸に、自転車に乗せてもらい良く連れて行ってもらつた記憶がございます。
 遠州灘の海岸の砂浜は、未だに鮮明に記憶が残ってございます。「ドドドドッ!」とした大波が押し寄せては引き、押し寄せては引きという豪快な海岸でして、いつまでも飽きずに眺めていた記憶がございます。今では、その海岸も、テトラポットが並べられてしまい、そのような光景が眺められない状態になってしまっており、寂しいものであります。

 数ヶ月、小生は預けられたようですが、未だに楽しい思い出として残っております。お世話になった、叔父は20年前に亡くなり、叔母も3年前に亡くなっております。従兄のお兄さんは、その後商業高校に進み、そこから国立大学に自力で入学し、研究員になりましたが、結婚されてからは、つきあいがほとんど無くなっております。従姉のお姉さんは、中学卒業後、美容師になり、住み込みで免許を取得して、18歳で結婚しました。ご主人が大工さんでありまして、その従姉だけは、未だに親しくお付き合いさせていただいております。

 遠州灘の大きな波を、見たくなりました。
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by sinsama2 | 2006-04-15 12:41 | 慎之介の軌跡
 小生、中川区では小学校1年生まで住んでおりました。しかしながら、記憶がほとんど断片的にしか覚えておりません。どんな友達がいたのか、どんな遊びをしていたのか、思い出せる事柄をランダムに書き連ねてみたいと思います。

 当時は、おもちゃなんぞ全く買ってもらった記憶はございません。いつも、ゴミ捨て場まで、オヤジといっしょに行き、そこで使えそうなおもちゃを拾ってきては、使用して遊んでいたような記憶がございます。近所の砂場でダンプカーのおもちゃで遊んでおりましたな~

 それとであります。当時のトイレは、皆「ポッチャン式」のトイレでございました。ウンチをすると、溜まっているものが、跳ね返ってお尻につくことがございました。なはは ♪
 したがいまして、定期的にバキュームカーなるものが、巡回してトイレの壺に溜まっております「代物」を吸い取ってもらっておりました。

 どうも、小生は、バキームカーが来るたびに、走り回って車を追いかけていたようであります。当時は、「大きくなったら、バキュームカーの運転手になりたい!」などと言っていたようであります。

 一つでありますが、母に一番怒られた遊びがございました。市営住宅の周りは田んぼばかりでありまして、その田園地区の隅に、焼き場がございました。ゴミを燃やす所ではありません。
 死んだ人を焼く「焼き場」であります。小生は確か近所の子供と一緒に、その焼き場で遊んでいたようでありまして、落ちていた人骨「指の骨」を自宅に持ち帰り、喜び勇んでお土産のようにして、母に見せたところ、こっぴどく怒られました。このことだけは、鮮明に覚えております。

 あと、鮮明に覚えていることがありまして、我が家の中で、母と近所のおばちゃんが大げんかをしていたことであります。普段は割と仲良くしていた二人だったと思われますが、「殺すぞ!やれるものならやってみい!」などと近所に聞こえるぐらいの大声でケンカを始めておりまして、恐ろしくて小生は自宅の外から眺めておりました。
 そのうち、近所の人たちが集まりだしまして、刃物ざたになる前にケンカが終わったように思われます。思い出すたびに、スゴイ迫力がありました。母はケンカが強かったですわ~

 ところでであります。小生は小学校に入る前に「小児結核」を患ってしまっております。外遊びもあまり出来なくなり、小学校に入学した時に、体育の授業は全て欠席となってしまっておりました。その病気も、1年生の後半には、なんとか直ったようであります。

 とにかく、この時期の記憶は、断片的にしか覚えておりませんでして、忘れていることが多いのですわ~

 では、今回はこのあたりで失礼いたします。(^^)
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by sinsama2 | 2006-03-17 23:40 | 慎之介の軌跡
 前回は、小生が中川区の市営住宅へ引っ越したところまでを記載しております。その、中川区での記憶は、3歳~6歳までの間でありまして、ほとんど断片的にしか覚えがございません。

 その市営住宅の構造は、木造平屋建の2軒長屋でありまして、お隣の家とは、壁1枚で仕切られているのみでありました。したがいまして、お隣のご夫婦の夫婦喧嘩の声やら、夜中の「○○」の声が聞こえてくるぐらいの、ボロでありました。「○○」の声は、子供は寝ている時間でありますので、聞いたことがございません。

 確か、6畳と4畳半と台所がある程度の小さな長屋でして、お風呂はありませんでした。したがいまして、銭湯に通っていたと思います。中川区での銭湯の記憶が思い出すことができません。記憶が、完全に遠ざかっております。

 それとですね~ 市営住宅の周囲は、のどかな田園風景が広がっていたような記憶がございます。春になりますと、紫色のレンゲ草の花が一面に広がっていたことは、鮮明に記憶がございます。また、近くには「新川」という一級河川が流れておりまして、堤防での「つくし」取りをした記憶も残っております。
 でも、新川の川の水は、かなり汚かったものでありまして、メタンガスがプクプクと浮かび上がっておりました。

 そこの住宅では、母とオヤジと小生の3人で住んでいたわけでありますが、最初の頃は、オヤジとしては、生活費を母に全て渡していたわけではないようでありました。別で住んでいた、義理の姉や義理の兄へお金を渡していたようだと、後日母より聞いておりました。

 したがいまして、生活はかなり苦しい状況でして、テレビは当然無し。冬場のストーブやらこたつすら無いような状況でありました。小生が寒がりますと、ヤカンにお湯を沸かして、タオルで小生の手を包んだりして、冬を過ごしていたそうであります。

 生活が苦しかったこともあり、母も看護婦として近所の病院のパートに出るわけでありますが、小生が身体が虚弱であったためおよび貧しさのため、保育園および幼稚園には入れる余裕が無かったようでありまして、母が働いていた時間帯には、病院の待合室で過ごしていたような記憶がございます。

 他の中川区での記憶につきましては、後日また記載したいと思います。
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by sinsama2 | 2006-03-10 23:12 | 慎之介の軌跡
 前回は、伊勢湾台風に被災した結果、港区の仮設住宅に住むことになった、と記載したところで終わっております。

 実は、仮設住宅がそのまま、名古屋市営住宅に移行することになり、かなり安い家賃で住めるようになったと聞いております。被災直後は、被災者への物資でなんとか生活が出来ていたようでありますが、いつまでもそれが続くわけではございません。
 乳飲み子を抱え、仕事に出るわけにもいかない母は、内職で細々と生活をしていたようでありまして、相当に苦しい生活をしていたようであります。

 そうこうしている内に、同じ被災者であります、近所の40代前半の男性が母の所によく遊びにくるようになった、と聞き及んでおります。その男性が、後に、小生の育ての父親となるわけでございます。以後「オヤジ」と記載させていただきます。

 そのオヤジについて、簡単に記載いたします。仕事は当時から中部電力の下請け企業に勤務しておりまして、火力発電所の現場で働いておりました。オヤジの息子が2人、娘が1人おりまして、上の息子はすでに職人として住み込みで働いており、下の息子はかなりグレておりまして、街中を闊歩していたそうでありまして、後には完全な「組員」となります。娘は当時中学生ぐらいとのことでありまして、仮設住宅には当時、オヤジと娘が暮らしていたのだと思われます。

 オヤジと母の交流がだんだんと深まるようになりますと、オヤジの娘が学校が終わった後に小生の面倒を見てくれるようになった、ようでありまして、その後には、母も少しの時間帯だけ仕事に出れるようになったようであります。
 その娘(義理の姉)が中学を卒業する頃には、母とオヤジは「一緒に住もう」ということになったようでありまして、小生が3歳頃でしょうか、港区の市営住宅から中川区の市営住宅に移転をし、母とオヤジと小生の3人で暮らすようになったと聞き及んでおります。

 小生自身としましては、港区での記憶は一切ございません。1~3歳ということなので、当然でありますが・・・・・・
 2回めは、このあたりで失礼いたします。
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by sinsama2 | 2006-03-04 18:30 | 慎之介の軌跡
 新しいカテゴリーとしまして、「慎之介の軌跡」という題名で今までの人生を活字として残しておこうと思います。記憶がだんだんと遠ざかってきておりますので、ボケが始まる前にシリーズ化して記録しておこうという次第であります。

 小生の出生でありますが、昭和34年6月でありまして、あの大災害の伊勢湾台風にまともに被災しているのでございます。伊勢湾台風が9月でございまして、当時は名古屋市港区の長屋に母親と借間をしていたようでありまして、高潮による海水が大人の背丈以上に水に浸かったとのことであります。住んでいたのが1階でありまして、母親はあわてて2階の住人の部屋に避難して無事だつたようです。避難する際に、赤児の小生を水の中に「チャッポン」と落としそうになったとか・・・

 小生の生まれたいきさつでありますが、まず母親のことを記載する必要がございます。母親は大正15年に今の浜松市(スズキ自動車本社の近所)に生まれ育ちまして、父親は国鉄の職員と聞いております。当時の国鉄ということは、戦前の鉄道省の国家公務員であり、農地もそこそこに所有していたようでありまして、中流の家庭に育ったようであります。

 ところがでありまして、母親の母が40代の前半に他界してしまい、母親の父が後妻を迎えてからおかしくなってしまいます。後妻とはそりが合わなかったようでありまして、多感な年頃の母は家にはほとんど寄りつかなくなり、浜松市内のヤンキーグループと交わっていたようです。小生が子供の頃に母親に怒られて、大変怖い思いをしたのは、その体験が生きていたんでしような~

 その後、母はだらけた生活に見切りをつけたようでありまして、まず準看護婦さんになり、働きながら正看護婦の資格を取ったようであります。地元の浜松にはおりたくないとのことであり、確か、横浜の生麦病院という所で勤務し、都会の生活を味わったようです。そこで、どうも恋愛をしたようでありまして、その相手の実家であります、福島県の会津猪苗代に数年居住したようです。どうも、そこの生活が合わなかったのでしよう、別れて浜松に舞い戻り、派遣看護婦として働くようになつたようです。

 一番奮っていたのが、佐久間ダムの工事現場の診療所への派遣看護婦として働いていた頃が、一番楽しかったと言っていた記憶があります。現場のオジチャン連中とのかかわりがずいぶんと楽しかったようであります。佐久間ダムが完成した後に、単身で名古屋の病院勤務となつたようです。そこで、入院していた患者さんといい仲となってしまい、小生が「できちゃった」ようなのでございます。

 どうも、小生の父親は、母より4歳年下ということもあり、父親の親に結婚を反対され「堕ろせ!生みたい!堕ろせ!生みたい!」ということで、すったもんだして、結局母は単身で「慎之介」を生んでしまいました。母は、家庭裁判所に養育費を請求する訴訟を提起し、父親に養育費を支払わせる判決を勝ち取ったわけでありますが、養育費が送金されたのが数ヶ月でありまして、乳飲み子を抱え、かなり苦労したようであります。

 そのような時期に、伊勢湾台風にまともに被災し、港区に出来た仮設住宅に住むことが出来たわけであります。このあたりのお話しは、無き母親から聞いた記憶を思い出しながら記載しております。てなわけでありまして、小生、実は種付けをした父親には一度も会ったことがございません。まあ、今更会おうという気持ちも起きませんが・・・・・・

 1回めは、このあたりで失礼いたします。また、気が向きましたらこの続きを記載したいと思います。
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by sinsama2 | 2006-02-24 22:27 | 慎之介の軌跡