2005.4.2 ブッダの人と思想 9
2005年 04月 03日
先週もサボッテしまっております「中村元、田辺祥二著」のブッダシリーズであります。今回は、「心の制御」についてであります。
原始仏典のパーリ語聖典であります、以下の「ダンマパタ」には、自己浄化をなすには、心の制御が問題となるとのことであります。
心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする。・・・・・・・弓師が矢の弦を直くするように。
水の中の住居から引き出されて陸の上に投げすてられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。
心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
「心をおさめれば、安楽をもたらす」と、書くことは簡単でありますが、実際、心をコントロールすることこそ、本当に難しいことであると、思われます。自分で自分の心をコントロールなんぞ、なかなか出来ません!
欲しい物が有れば、なんとかして買いたい!腹が減れば「食べたい!」綺麗な女性を見れば「○○○したい!」・・・・これは、最近元気なし!本当に難しい!
このことに関して、中村先生は、次のように、述べております。
「人は、気をゆるめるならば、どんなにことでも条件次第ではやりかねない存在であります。人間の根本的な善悪の基準はあるのでしょうか。たとえ、善いことであっても、必ずしも人は進んでやろうとは思わない生き物ではないでしょうか。」
これって、本当にそう思います。人間は、お金次第で、何でもする人もおります。人も殺します!盗み食いもするでしょう・・・・善いこと、でありますが、ボランティア活動を進んで行う人も、まだまだ少数派のような気がします。小生も多数派でして、善いと思うことすら、なかなか出来ません。
これらのことについて、ブッダは、どのように考えていたのか。中村先生は次のように述べておられます。
「答えは、清浄行に帰ってくるのです。この行とは、とらわれ、妄執の克服であります。過剰な欲望の克服です。それは、一度に克服することはできませんが、常に挫き続けることによっても解脱へと近づく、これが自己浄化の道であります。この実践から自らに善悪の基準は生まれます。」
な~るほど、であります。小生もボチボチと、欲望を押さえることに致しましょう!これが、ブッダの実践であるならば・・・・・
なかなか、難しそうですわ~
原始仏典のパーリ語聖典であります、以下の「ダンマパタ」には、自己浄化をなすには、心の制御が問題となるとのことであります。
心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする。・・・・・・・弓師が矢の弦を直くするように。
水の中の住居から引き出されて陸の上に投げすてられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。
心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
「心をおさめれば、安楽をもたらす」と、書くことは簡単でありますが、実際、心をコントロールすることこそ、本当に難しいことであると、思われます。自分で自分の心をコントロールなんぞ、なかなか出来ません!
欲しい物が有れば、なんとかして買いたい!腹が減れば「食べたい!」綺麗な女性を見れば「○○○したい!」・・・・これは、最近元気なし!本当に難しい!
このことに関して、中村先生は、次のように、述べております。
「人は、気をゆるめるならば、どんなにことでも条件次第ではやりかねない存在であります。人間の根本的な善悪の基準はあるのでしょうか。たとえ、善いことであっても、必ずしも人は進んでやろうとは思わない生き物ではないでしょうか。」
これって、本当にそう思います。人間は、お金次第で、何でもする人もおります。人も殺します!盗み食いもするでしょう・・・・善いこと、でありますが、ボランティア活動を進んで行う人も、まだまだ少数派のような気がします。小生も多数派でして、善いと思うことすら、なかなか出来ません。
これらのことについて、ブッダは、どのように考えていたのか。中村先生は次のように述べておられます。
「答えは、清浄行に帰ってくるのです。この行とは、とらわれ、妄執の克服であります。過剰な欲望の克服です。それは、一度に克服することはできませんが、常に挫き続けることによっても解脱へと近づく、これが自己浄化の道であります。この実践から自らに善悪の基準は生まれます。」
な~るほど、であります。小生もボチボチと、欲望を押さえることに致しましょう!これが、ブッダの実践であるならば・・・・・
なかなか、難しそうですわ~
by sinsama2
| 2005-04-03 00:05
| 本